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前田 和也(まえだ かずや、1984年1月8日 - )は、栃木県佐野市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 ポジションは、MF、DF。ボランチを本職とするが、センターバックやサイドバックもこなした。 == 来歴 == 小学1年生の時にサッカーを始める。1999年に佐野日大高校に進学。3年時にはU-18日本代表に選出された。 2002年にJリーグ(J1)・FC東京に入団〔 FC東京 (2001年12月18日)〕。同年4月6日の市原戦でリーグ戦デビューを果たし〔選手出場記録 Jリーグ (2002年8月17日)〕、その後も少しずつプレー時間を延ばしていったが、初の先発出場となった翌5月の清水戦で緊張からミスを連発。以降、公式戦での出場機会を得られず、12月からポルトガルの強豪FCポルトに3ヶ月間の留学をすることになった〔 FC東京 (2002年12月9日)〕〔 FC東京 (2003年3月5日)〕。ポルトの外国籍枠に空きが無く、トップチームには登録されなかったが、激しい守備と素早いパス裁きを磨いた。 2003年10月、降格危機〔ジヤトコFCの解散に伴って入れ替え戦を回避し、辛くもJFL残留を果たした。〕 にあったJFL・佐川印刷SC(現:SP京都FC)へ期限付き移籍〔 FC東京 (2003年9月30日)〕。J1からの「助っ人」として戦う中で精神的にも向上〔東京中日スポーツ (2004年9月3日)〕。会社業務も経験した。シーズン終了後復帰〔 FC東京 (2003年11月25日)〕。 2004年に入り、本格的にサイドバックに挑戦。同年7月の柏戦において、FC東京では2年2ヶ月ぶりにメンバー入りし、右SBで出場すると〔試合記録 ナビスコ予選第6節 FC東京 (2004年7月24日)〕 自身のクロスからPKを獲得した〔 東京中日スポーツ (2004年7月26日)〕。翌8月の清水戦では初のJ1リーグ戦でのフル出場を果たし、身体の強さを生かした守備と、果敢な攻撃参加を見せた。2005年にはトゥーロン国際大会に臨むU-21日本代表に選出された〔 FC東京 (2005年5月23日)〕〔【U-21日本代表チーム】フランス遠征〔第33回ツーロン国際大会(U-21)〕メンバー J's GOAL (2005年5月24日)〕。また、2004年からはFC東京での選手会長を任され〔Tokyo Mania Vo.14 182ch (2006年1月18日)〕、Jリーグ選手協会の支部代表〔Jリーグ選手協会 JPFA 役員名簿 (2004) 〕、支部長〔Jリーグ選手協会 JPFA 役員名簿 (2005) 〕、副支部長を務めていた〔Jリーグ選手協会 JPFA 役員名簿 (2006) 〕。 2006年6月、出場機会を得るため〔 FC東京 (2006年6月30日)〕 J2・モンテディオ山形に完全移籍〔前田 和也 選手 FC東京より完全移籍加入決定のお知らせ モンテディオ山形 (2006年6月30日)〕。2007年限りで契約満了により山形を退団し〔モンテディオ山形契約満了選手のお知らせ モンテディオ山形 (2007年11月30日)〕、Jリーグ合同トライアウトに参加。 2008年、地元栃木県で関東1部に所属する日立栃木ウーヴァSC(現・栃木ウーヴァFC)へ移籍。2009年の全国地域決勝大会で準優勝に入り、JFL昇格に貢献。攻守の要であり〔第203回「JFL後期1節 栃木ウーヴァ対流通経済大学FC」 ゲキサカ (2010年7月7日)〕、主将も務めていた〔第91回天皇杯全日本サッカー選手権大会 チーム紹介 (都道府県・大学代表) 日本サッカー協会 (2012年1月1日)〕。2012年限りでの現役引退を栃木U公式サイト上で発表していたが、自身のブログでこれを撤回し、現役続行を表明した〔報告・現役・・・ 俺の日常 (2003年1月9日)〕。 2013年をもって現役を引退し〔前田和也選手、現役引退のお知らせ 栃木ウーヴァFC (2013年11月13日)〕、翌2014年より栃木ウーヴァFCのコーチに就任〔前田和也氏、トップチームコーチ就任のお知らせ 栃木ウーヴァFC (2013年12月4日)〕。2015年より同クラブの監督に就任すると発表された。 しかし年間順位が最下位となり、1年で監督としての契約が満了となりヘッドコーチに配置転換した〔前田和也監督契約満了のお知らせ - 2015年12月26日 栃木ウーヴァFC公式サイト〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「前田和也 (サッカー選手)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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